長岡実業 200年の歴史
 
第一章 創業〜近代日本の胎動と共に
 
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●大阪道修町に薬種問屋を創業
創業者・初代佐祐(ヘンは示)、屋号は日野屋という。「日野」とはすなわち近江(滋賀県)日野。安土桃山時代の城下町で、近隣に艾(もぐさ)※その他の薬草を産する生薬の集産地であり、数多くの商人を輩出した商人の町である。
その近江日野商人の流れを汲む初代日野屋佐祐が、大阪道修町(当時の東区伏見町)に薬種問屋を創立したのは、文化元年(1804年)。町人文化が花開いた文化文政時代の繁栄と共に大坂の商業は大いに栄え、また道修町が現在に続く薬種業の中心地としての基礎を築いていくなか、長岡実業株式会社200年の歴史が始まった。

文政10年(1827年)に初代が逝去すると、婿養子大和屋藤兵衛の弟が、二代目佐助として暖簾を相続。しかし折りしも時代は天保へと移り(1830年)、各地で大飢饉が続発。一揆、打ちこわしが頻発し、老中水野忠邦による天保の改革が始まるなど、世相は騒然と幕末に向かう。だが、そんな混迷の渦中にあって、二代目佐助は朝鮮に渡って人蔘※の種子を持ち帰り、鳥取・島根での栽培を奨励、中国朝鮮との貿易を開始。果敢に世界を目指す長岡の気風は、すでに江戸時代からのものであったと言えよう。
その後、早くに長男を失っていた二代目佐助は、後事を託すべき人物として永楽屋に青年谷本徳松を見出し、家督を譲る。この青年徳松が長岡中興の祖となった三代目佐介。明治2年、弱冠24歳にして家名を相続し、維新明治の波乱の時代へと乗り出していくことになる。
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初代日野屋佐が店を構えた発祥の地(現在三越大阪店の一角)

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人蔘の実
  
●近代日本の黎明期を駆ける
明治に入ると、世はまさに文明開化。西洋文化の奔流が押し寄せる中、三代目佐介は和漢薬に加え、洋薬の取り扱いを開始。さらに砂糖、洋酒へと目を広げるなど、積極的な事業拡大を目指す。
そんな中、明治10年に西南戦争が勃発。三代目佐介は機を逃さず九州方面への洋薬取引を行い利益を得る。そして続く明治12年6月。神戸港に来航した外国船員から罹患したコレラが大阪から全国へと蔓延(患者数16万超、死者10万5700人)。このときには石炭酸※で大きな利益を上げ、朝鮮に染粉を売り込み、代わりに麝香(じゃこう)※、黄柏(おうばく)※、砂金を持ち帰り、また除虫菊※の種子を入手して栽培を試みるなど、八面六臂の業績を残している。
さらに明治16年には海外との直接取引きを見据え、英領香港を視察。日本で3番目の香港進出商店となり、30歳代の若さにして大阪道修町においてのゆるぎない地位を確立した。
またその一方で、上記コレラ流行時には検疫所へ石炭酸を寄付。毎年のように多発した大火、水害には義捐金を送るなど、常に仁恤(じんじゅつ)の心を忘れなかった。長岡の根底を貫く、社会貢献、フィランソロピーの精神である。
こうして時代の後押しを受けて躍進した三代目佐介だったが、明治18年、大きな不運が訪れる。
西南戦争後、日本経済は大きく揺れた。インフレーションによる物価の高騰、続くデフレ政策、そして不作と不況。銀行の破綻、商工業者の倒産が相次ぎ、三代目は生まれて初めての景気変動の波に翻弄され、莫大な損害をこうむったのである。
三代目は、心機一転、新天地に再興を賭けた転地を決心。しかし目指すべき地は、東か西か。運を天に託した三代目は、神詣での後、淀川にかかる天神橋の上に立ち、洋傘を地に立てた。ままよ。静かに手を離すと、傘は東を指して倒れた。三代目は、傘の示す道に従い、東へ向かう。
時に明治19年、三代目41歳、大厄の年。手記には「東京へ出稼す」と記されていた。
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三代目 長岡佐介

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現在の天神橋
(らんかんは昔のまま)

 
 

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