創業者・初代佐祐(ヘンは示)、屋号は日野屋という。「日野」とはすなわち近江(滋賀県)日野。安土桃山時代の城下町で、近隣に艾(もぐさ)※その他の薬草を産する生薬の集産地であり、数多くの商人を輩出した商人の町である。
その近江日野商人の流れを汲む初代日野屋佐祐が、大阪道修町(当時の東区伏見町)に薬種問屋を創立したのは、文化元年(1804年)。町人文化が花開いた文化文政時代の繁栄と共に大坂の商業は大いに栄え、また道修町が現在に続く薬種業の中心地としての基礎を築いていくなか、長岡実業株式会社200年の歴史が始まった。
文政10年(1827年)に初代が逝去すると、婿養子大和屋藤兵衛の弟が、二代目佐助として暖簾を相続。しかし折りしも時代は天保へと移り(1830年)、各地で大飢饉が続発。一揆、打ちこわしが頻発し、老中水野忠邦による天保の改革が始まるなど、世相は騒然と幕末に向かう。だが、そんな混迷の渦中にあって、二代目佐助は朝鮮に渡って人蔘※の種子を持ち帰り、鳥取・島根での栽培を奨励、中国朝鮮との貿易を開始。果敢に世界を目指す長岡の気風は、すでに江戸時代からのものであったと言えよう。
その後、早くに長男を失っていた二代目佐助は、後事を託すべき人物として永楽屋に青年谷本徳松を見出し、家督を譲る。この青年徳松が長岡中興の祖となった三代目佐介。明治2年、弱冠24歳にして家名を相続し、維新明治の波乱の時代へと乗り出していくことになる。 |
初代日野屋佐が店を構えた発祥の地(現在三越大阪店の一角)
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