長岡実業 200年の歴史
 
第三章 動乱〜関東大震災と太平洋戦争
 
はじめ第一章第二章第三章第四章年表
イメージ
 
●神戸を拠点に世界に名を轟かせた黄金時代
関東大震災により、横浜本店と薄荷工場の中枢は大きな打撃を受けた。しかし、幸いにも神戸市滝道に西の拠点を持っていた四代目佐介は、この地を本拠と定め、1924年(大正13年)、早速、本山薄荷工場の建設に取りかかった。
この時期、神戸は、関東大震災にみまわれた横浜に代わり、海外貿易ならびに内地集散の中心市場として一躍栄え、天産物輸出の黄金時代を迎える。
そんな中、長岡の名は、薄荷製造輸出の五大メーカーの一つとして、世界に浸透。当時のアクメ・コード(世界共通の電信暗号帳)の「メントール※」の項には、N(長岡)、S(鈴木)、K(小林)、Y(矢沢)、T(多勢)の五社が、薄荷のファイブ・ブランドとして掲載されていたのである。
というのも、この頃、日本は世界一の薄荷輸出大国であり、最盛期となった昭和14年の生産量は実に150万斤余(900トン)。全世界の薄荷生産高の8割を占め、薄荷大国としての名をほしいままにしていたのである。
イメージ
暗号電報

イメージ
大正12年9月
関東大震災避難当時
  
●時代の暗雲と戦時体制下の経済統制
当然ながら長岡の躍進も著しく、1930年(昭和5年)には北海道に人蔘工場を建設し、翌1931年(昭和6年)には長岡駆虫剤製造株式会社設立。続く1932年(昭和7年)には朝鮮総督府の要請を受けて朝鮮で薄荷・除虫菊の栽培に着手、1937年(昭和12年)には同地に長岡薄荷松汀里工場を新設する。
しかし、時代は不穏な風を運んでいた。
1931年(昭和6年)、満州事変勃発。そして日本の薄荷産業がまさに全盛を誇った1937年(昭和12年)に、日中戦争の開戦。翌々1939年(昭和14年)第二次世界大戦開戦、1941年(昭和16年)真珠湾攻撃――。
戦時色が濃厚になるにつれ、政府による経済統制が進み、1941年(昭和16年)には農地統制により薄荷作付けの減反が開始。価格も公定され、戦争見地に不要・不急の物資は製造販売が禁止されるに及んだ。
そうして事業が困難を極める中、しかし四代目佐介は、1940年(昭和15年)上海支店を開設、1943年(昭和18年)中国・広東、タイ・バンコク両地に出張所を開設するなど、中国、東南アジアへの販路拡大を志したが、1944年(昭和19年)、東京空襲にて東京出張所を焼失。翌1945年(昭和20年)の大空襲では、各地の店舗、工場も次々と罹災。同年8月、甚大な被害を残して、15年に及ぶ戦争は終結をみたのだった。
イメージ
除虫菊

イメージ
松汀里工場落成式記念撮影
 

BACK
はじめ第一章第二章第三章第四章年表
NEXT
長岡実業株式会社 長岡実業株式会社
〒662-0934 兵庫県西宮市西宮浜4丁目7番18号
tel:0798-26-1001 fax:0798-26-0055