当然ながら長岡の躍進も著しく、1930年(昭和5年)には北海道に人蔘工場を建設し、翌1931年(昭和6年)には長岡駆虫剤製造株式会社設立。続く1932年(昭和7年)には朝鮮総督府の要請を受けて朝鮮で薄荷・除虫菊の栽培に着手、1937年(昭和12年)には同地に長岡薄荷松汀里工場を新設する。
しかし、時代は不穏な風を運んでいた。 1931年(昭和6年)、満州事変勃発。そして日本の薄荷産業がまさに全盛を誇った1937年(昭和12年)に、日中戦争の開戦。翌々1939年(昭和14年)第二次世界大戦開戦、1941年(昭和16年)真珠湾攻撃――。
戦時色が濃厚になるにつれ、政府による経済統制が進み、1941年(昭和16年)には農地統制により薄荷作付けの減反が開始。価格も公定され、戦争見地に不要・不急の物資は製造販売が禁止されるに及んだ。
そうして事業が困難を極める中、しかし四代目佐介は、1940年(昭和15年)上海支店を開設、1943年(昭和18年)中国・広東、タイ・バンコク両地に出張所を開設するなど、中国、東南アジアへの販路拡大を志したが、1944年(昭和19年)、東京空襲にて東京出張所を焼失。翌1945年(昭和20年)の大空襲では、各地の店舗、工場も次々と罹災。同年8月、甚大な被害を残して、15年に及ぶ戦争は終結をみたのだった。 |
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