横浜に新天地を求めた三代目は、1889年(明治22年)11月13日、念願の横浜店を開店した。各種取り扱い品目の中でも、とりわけ薄荷に着目し、明治25年頃には薄荷製造に着手。1894年(明治27年)に勃発した日清戦争による戦時好況ともあいまって、薄荷、人蔘の輸出は奮い、業績は右肩上がりで進展していく。その後、横浜高島町六丁目に木造平屋建て倉庫200坪を購入し、後年、1914年(大正3年)には、その隣地に、煉瓦造り三階建て150坪の新工場が、事務室、ボイラー室を従えて竣工。薄荷メーカーとしての道を拓き、ゆるぎない基礎を築いた三代目の円熟期と言えよう。
さて、横浜開店に先立つ1888年(明治21年)。三代目は大阪から3人の店員を東京へ伴った。その内の一人、当時14歳だった少年、名は鹿蔵が、後の四代目佐介そのひとである。
「忠孝、勉強、正直、親切、倹約、注意、忍耐」 恩師に授けられた七か条を抱いて上京した少年は、長じて24歳にして三代目佐介の婿養子となり(1898年/明治31年)、1918年(大正7年)、佐介の名を襲名し、四代目としての道を歩み始めることになる。
貿易港横浜に店を構えて以降、天産物輸出に力を注いでいた三代目は、さらなる販路拡大を狙って、西の玄関港・神戸に着目。1903年(明治36年)、神戸市生田区の生田神社前に出張所を開設し、中国大陸・朝鮮半島への足がかりとした。この出張所は、その後1911年(明治44年)に同市滝道に神戸支店として移転。関東大震災後の拠点となっていくが、それについては第3章で述べることとする。
精力的に事業拡大が推し進められていったこの時期、長岡は、神戸以外にも、日本各地に出張所を開設。1907年(明治40年)には静岡に浜松出張所を、1911年(明治44年)には北海道に旭川支店を、そして1920年(大正9年)には広島に尾道出張所を設け、薄荷の買い付けは無論、除虫菊、糸瓜(へちま)、生姜、蕃椒(とうがらし)の調達等に努めたのだった。
こうして、日本各地に足場をもち、世界を相手に奮戦していた1923年(大正12年)。創業120年を迎える長岡に、再び大きな試練が訪れる。 9月1日午前11時58分。関東全域をマグニチュード7.9の直下型大地震が襲った。死者・行方不明14万超という未曾有の大災害、関東大震災であった。
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